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11月の歴史 坂本龍馬、京都に眠る・・・ 2002/11/1
[10月の歴史] [12月の歴史]


毎月1回、過去のその月にあった出来事を
振り返って、一体どんな事があったのか
調べてみよう!という「今月の歴史」シリーズ。
11月ともなると、朝晩など特に肌寒くなって
きますが、そんな中で昔はどんなことが起こって
いたんでしょうね!?


時は、1863年11月15日、午後9時過ぎごろ、
京都の醤油屋の2階で、ひとりの男が深い刀傷をうけ
この世を去ろうとしていました。「俺は、脳をやられ
た。もういかん・・・」と最期の言葉を呟いて臨終を
迎えたといわれていますこの人物、よく知っている方
も多い事でしょう。そんなわけで、今回は、坂本龍馬
の暗殺事件
を振り返って、どんな歴史の中に
いて、何を考えていたのか?
をレポートしてみた
いと思います。

 目次 龍馬の死と活躍・・・ 
龍馬に会える場所(像、お墓) 
龍馬の一生(年表) 
※クリックすると項目へとびます。

◆ 龍馬の死と活躍・・・ ◆
さて、まず坂本龍馬って誰?という方に
坂本龍馬は、江戸時代の終わり、「幕末」
と呼ばれる頃に活躍した人です!日本が
西洋に負けない強い国になるために、争い
の絶えない藩同士をひとつにまとめたり
前回の歴史で紹介した、大政奉還を提案
したり、常識にとらわれず総合商社をつ
くったりして、のちの日本の近代化のも
とを作ったひとです。
龍馬遭難の碑
(京都四条河原町)
◆龍馬はどこで殺されたの?
龍馬の亡くなった近江屋のあった場所へ
行ってきました。場所は、京都の四条
河原町
。河原町通り(西側)沿いに北へ
歩いていくと、旅行代理店の前に小さな
石碑がありました。(写真)「坂本龍馬
・中岡慎太郎遭難之地」と、文字が刻ん
であります。ここには、石碑のほかには
何も無く、レポーター以外、歩いている
ひとも特に足を止める様子もなかったで
す。龍馬はここにあった近江屋の2階で
暗殺されてしまったのです。丁度、河原
町通りの向こう側に土佐藩のお屋敷があ
ったのですが、近江屋は土佐藩
御用達のお醤油屋さん
でした。

でも、なぜ武士の龍馬たちがお醤油屋に
いたのでしょうか?誰も思わないでしょ
うけど、お醤油を買いにいったわけでは
なさそうです・・・。

◆なぜ醤油屋に龍馬がいたのか?
幕末である当時、役人達はこれからの日本
のあり方を考えていましたが、考え方には
所属する藩や、立場の違いなどから、かな
りばらばらになっていました。具体的には
だいたい当時は、外国人を討払い幕府を倒
し天皇中心の国をつくろうと考える、「尊
王攘夷派」「倒幕派」という考えの人達と
鎖国をやめ国を開き今まで通り幕府中心の
体制を維持するという考えの「開国派」
「佐幕派」という人達がいました。そして
自分達の考えを通すため、または反対勢力
をつぶすために争いごとが絶えなかった
のです。また、そうしたいざこざを起こす役
人・浪人は治安を乱す原因にもなるからと
幕府の役人が、集会所などに乗り込んで、
そこでまた闘争が起こったり・・・。そん
な事が日常茶飯事の状態だったのです。余
談ですが、当時は「人斬り」稼業なんても
のもありましたし、夜道を歩いてたら、さ
っくりと暗殺されてしまうことも
あったんですよ!龍馬のような、発言力の
ある人物リーダー格の人物は特に、いろん
な勢力からいつも命を狙われている
ような状態だったのです!そういう面では
毎日命が危ないというか、夜道に気をつけ
ろっていうか恐ろしい世の中だったんです
ね・・・。

龍馬はいつも、拳銃を離さずに持ち歩き、
時には変装したりしながら、いろんな考え
方の人物とあって、議論したり、見聞を広
げたり、また、仲間と集会を開いたりして
いました。自分達の拠点なんかも、襲撃を
防ぐために、基本的に秘密にしていまして
定期的に場所を移していました。そんなわ
けで、お醤油屋さんは蔵をもってましたか
ら、その中に龍馬たちは、少し前から潜ん
でいたところだったんです。土佐藩のお屋
敷が目の前だったこと、裏口から逃げやす
かったことなども近江屋を秘密の拠点に
した理由だったと考えられているそうです!

龍馬暗殺の状況は・・・
その晩、夜の9時過ぎ、風邪を引いてしま
った龍馬は隠れていた土蔵から、近江屋の
店舗の2階の奥の部屋へ移ってきていまし
た。そこには中岡慎太郎という、龍馬と一
緒に、仲の悪かった薩摩藩と長州藩を和解
させた(薩長同盟)同志が、おりました。ま
た、石碑には名前がなかったですけど、龍
馬たちのボディーガードをしていた、力士
藤吉というひとも1階で見張りをしてい
ました。そこへ「十津川の郷士」と名乗る
人物
が現れ、龍馬たち3人ともを暗殺して
いったのです。誰が、何のために暗殺した
のか?という点では、新撰組や京都見廻組
西郷隆盛、後藤象二朗などいろんな説
があ
るようですが、はっきりいっていまだに、
真相は闇の中のようです。最近の研究では
暗殺者は綿密な計画のもとに、おそらく
人くらいのグループ
でやってきのだろうと
推測されているそうです。いずれにしても
龍馬は志半ばにして、その場で息を引き取
ったそうです。皮肉にもこの日は11月15日
龍馬の誕生日でした・・・。

◆龍馬の功績は?
せっかくですから、龍馬の功績についてま
とめておきましょう!龍馬というひとは、
けっこう珍しい立場なのですが、倒幕派と
はいっても、幕府や、違った考えの人物と
も交流したりして、その間柄をとりもつ役
割をしていました。龍馬がいたからこそ、
話し合いの場が出来、争いが絶えなかった
薩摩・長州藩が討幕の目標の下でひとつに
なりました。(薩長同盟)

それと、忘れてはいけないのが、前回の歴
史でとりあげた、大政奉還は「船中八策」
と呼ばれる、龍馬の考えがもとになって
いた
ということ!

また、革靴を履き、拳銃を持っていた所
からもわかるように、非常に考え方の新し
いひとでもありました。龍馬は、亀山社中
という、今で言う総合商社のようなもの
を結成して、「武士は商売をしない」のが
常識であった時代に、藩を相手に交易の仲
介や物資の運搬などの商売をはじめました。
亀山社中は、のちに名を「海援隊」と改め
ました。これも、龍馬が国際交流していく
中では、経済が大事であるということを
知っていたからと言われていますし、航海術
をマスターして軍事面でも役立てることも
目標にしていたそうです。
土佐藩のお屋敷跡
(京都四条木屋町)
土佐藩屋敷内に
あった土佐稲荷
(京都四条河原町)
池田屋事件跡
新撰組vs尊攘派の
流血事件の跡。
(京都三条河原町)
坂本龍馬!
わりとさっぱり
したお顔ですね。
酢屋。龍馬の会社
「海援隊」の事務
所が2階にありま
した。(京都三条河原町)
酢屋にある碑。
「坂本龍馬寓居之跡」
(京都三条河原町)



◆ 龍馬に会える場所!(像、お墓) ◆

○ 京都 祇園 円山公園
龍馬の姿が見たい!と思ったレポーター。京都の
祇園付近にあります円山公園(写真左)に、
行きました。公園の奥へ行きますと、なるほ
ど、龍馬と中岡慎太郎の立派な像(写真右)があ
りました。公園の奥の大変静かな場所で、じっと
胸をはって遠くを見つめているような二人の姿は
日本の未来を、本当に真剣に考えていたような、
気迫が感じられましたよ。

○ 京都 東山安井 霊山護国神社
こちらは、近江屋の事件で暗殺された龍馬、中岡
新之助をはじめ、幕末に日本を変えようと奮闘し
命を落とした先覚者たち400人ほどが眠る場所。
霊山護国神社(写真左)です。場所は円山公園
の少し南、東山安井というところにあります。
かなり急な坂と石段を上がるとすぐに龍馬と
中岡慎太郎のお墓がありました。(写真右)

最後に。護国神社には、若い人から年配の方
まで、沢山のひとがお参りに来ていましたよ
ー。既存の考えにとらわれずにいろんな人と
交流をもった龍馬、日本を心の底から立派
な国にしたいと思っていたからこそ、常に
広い視野で考えて行動していた龍馬。そんな
龍馬のもとに人が集まったからこそ、歴史が
動いて明治維新へとつながったのだなぁと
思いました!龍馬は今日も人々の訪問を受け
ながら、京都の街並みを見下ろし、日本のこと
を考えているのかもしれません・・・。


◆ 坂本龍馬の一生(年表) ◆

志半ばにして、京都の地に没した坂本龍馬。
龍馬の一生を簡単な年表にまとめてみました。
今では、近代日本を振り返るときに欠かせな
いほど、有名でファンも沢山いますネ!でも
意外にも子供の頃は、それといって特別に
才覚があった人物わけではなかったそうです
よ〜!そんな龍馬の人生に注目してみましょう。

年号 西暦 年齢 歴史
天保  6 1835  1 11月15日、郷士御用人坂本長兵衛の
次男として高知城下に生まれる。
弘化  3 1846 12 母、幸49歳で亡くなる。私塾楠山庄輔
塾を喧嘩がもとで退塾させられる。
嘉永  1 1848 14 小栗流日根野弁道場に通って剣術修行。
姉、乙女の訓練を受ける。
嘉永  6 1853 19 剣術修行のため、江戸へ赴き、千葉定吉の
道場に入門する。
ペリー来航の際、海岸警備につく。
安政  1 1854 20 6月に江戸より土佐へ帰る。
河田小龍を訪ね世界情勢を知る。
文久  1 1861 27 土佐勤王党に加盟する。
文久  2 1862 28 土佐藩を脱藩。勝海舟を訪ねて、世界情勢を
聞き。門下生となる。そして、土佐藩の同士
たちを次々と海舟の門下に入れる。
文久  3 1863 29 勝海舟のおかげで龍馬の脱藩罪が赦免される。
10月神戸勝塾の塾頭になる。
元治  1 1864 30 池田屋騒動で新撰組に同志尊攘派浪士ら12人を
惨殺、20余人を捕縛される。
海舟の使者として西郷隆盛と会う。
慶応  1 1865 31 桂小五郎、西郷隆盛などを訪ね、薩摩藩と
長州藩の和解のために尽力する。
亀山社中設立。
慶応  2 1866 32 小松帯刀、西郷隆盛、桂小五郎らと会
談、薩長同盟が結ばれる。
伏見奉行所の役人に襲われて負傷する。
(寺田屋事件)
楢崎龍と結婚する。
この頃徳川慶喜が15代将軍になる。
6月幕府の第2次征長の際、長州側に立
って戦う。
慶応  3 1867 33 長崎清風亭で後藤象二郎と会談。
海援隊の隊長に就く。
後藤象二郎に「船中八策」で王政復古
案を示す。
江戸より帰る。この頃、「船中八策」
を基にして「新政府綱領八策」を作る。
10月14日、徳川慶喜が大政奉還を
上奏する。
11月15日、京都近江屋において中岡
慎太郎と面談中、刺客に襲われ闘死する。

中岡は17日に亡くなる。11月18日葬儀。

年表をみると、龍馬は黒船来航のあたりから
様々な人々に会い、啓発されてその考え方を
広げていったのだとわかりますね。特に、
勝海舟の影響は大きいようです。そして、自
分と考え方の違う人物とも進んで交流してい
るところに、龍馬の懐の広さを感じますね!



●取材・制作・編集・写真  岡本 卓也

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