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◆どうして恭仁京ができたの?
恭仁京は740年12月15日から、聖武天皇に
よって作られ始めました。それまでは、
平安京と並んで有名な、今の奈良県奈良市
にある、平城京に都がありました。都と
いうと、何だかのんびりした時間が流れ
ているような、優雅な感じがしますけど、
当時は疫病や戦乱などが頻発し、民衆の暮
らしもかなり荒れてしまっていた時期だっ
たようです。そんな中で、時の天皇、聖
武天皇は、平和な世の中がやってくるよ
うにとの願いを込めて、新しい土地で新
しい都を始めようと思ったのではないか
といわれているそうです。
そして聖武天皇が各地を旅して回った結果
現在の京都府加茂町である、瓶原(ミカノ
ハラ)の地を中心に、新しい都を建てるぞ!
と宣言したのが740年12月15日のだったそう
です!。北に急な山地があり、南に平野が
あってその中央を泉川(木津川)がゆったりと
流れるという、景観の良さもあって、ここを
新しい都にしたのではないかといわれている
ようです。確かにゆうゆうと流れる木津川は
スケールが大きくて、水も綺麗な感じがしま
した。
◆恭仁京の様子はどんなだった?
さて、そんなわけでレポーターは、実際に
恭仁京跡にいってきました。都の跡とは、
いえ、最近まで"幻の都"だったので、当時
恭仁京ににあった全ての建物について解明
されているわけではないようです。昭和48
年度から発掘調査がされて、少しずつ当時
の姿が分かってきた感じなのです。
恭仁京が作られ始めると、多くの人々が平
城京から移り住み、活気にあふれていたそ
うです。道路は碁盤の目のように、きち
んと整備されて、瓶原の台地には中国風の
壮大な宮殿が建てられたそうです。宮殿の
中でも一番大きな宮殿で、いろいろな儀式
が行われていたのが「大極殿」という建物
でした。大極殿の土台の石が発見されてい
て、石碑が建っていましたよ。当時は、こ
こに沢山の人がいて、ガヤガヤしていたん
でしょうね。
恭仁京は南北に750メートル、東西にに560
メートルの大きさでした。石碑などは無い
ようでしたが、天皇が住んでいて儀式など
も行われていた「内裏」の跡が発掘されて
いるようです。また、宮殿の周りを囲んで
いた5メートルほどの土の塀、「大垣」と、
都の、雰囲気には欠かせない、出入りのた
めの門の跡も発見されていました!
◆恭仁京でおこなわれたことは?
740年から、日本の首都として政治・経済
・文化の中心になった恭仁京。どんなこと
が行われていたんでしょうね?
当時、聖武天皇の頭の中には、新しい都を
造ることのほかに、大仏を造ろうという、
大きな計画がありました。そして、この
大仏を造ろう!という計画が恭仁京で練ら
れ、近江の信楽というところで工事がはじ
められたそうです。結果的にこの大仏計画
によって、奈良の大仏がつくられたんです
よ〜!
また、詳しくは後で書きますが、聖武天皇
は恭仁京で、全国60あまりの国に国分寺・
国分尼寺を建てることを命じました。当時
は天然痘の流行や飢餓や内乱などの社会
不安が続いたため、平安を願い、仏教の教え
によって国をおさめ、安泰にしようと思っ
たわけです。
◆恭仁京のその後・・・
平城京から、新しく生まれ変わった恭仁京
でしたが、都として栄えたのはわずか4年
ほどで、都は大阪の難波、そして再び平城
京へともどっていったのでした。
恭仁京の後は、仏教によって世の中の乱れ
を鎮め、国を安泰にしようということで、
そのまま「山城国分寺」というお寺になり
ました。今では、その山城国分寺もなく
なってしまいましたが、お寺にあった七重
の塔の土台になった石や、石碑を見ること
ができました!
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大極殿跡の石碑
当時は、この辺りは
にぎやかだったの
だろうなぁ・・・。
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大極殿の土台の石
ここに高さ25メートル
の大きな宮殿があった
んです!
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山城国分寺跡の石碑
恭仁京を受け継いだ
お寺なので、同じ敷
地にありました。
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国分寺の七重の塔を
支えた土台の石
塔は国分寺建設時に、
新しく建てられました。
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