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12月の歴史 京都にあった幻の都・恭仁京を追う! 2002/12/2
[11月の歴史] [1月の歴史]


毎月1回、過去のその月にあった出来事を
振り返って、一体どんな事があったのか
調べてみよう!という「今月の歴史」シリーズ。
12月といえば、もう、いくつも寝なくてもお正月!
その前に、クリスマス、忘年会に大掃除・・・。
歳末バーゲンも見逃せないわっ。そんな感じで、皆
忙しいこの季節ですが、昔はどんなことが起こって
いたんでしょうか?


京都といえば、平安京がやっぱり有名ですね〜。
碁盤の目のようなつくりは今でも京都のまちに
息づいていますし、最近では映画、『陰陽師』
でも話題になったりしてます。でも!もっと前
に、京都の南に、恭仁京(クニキョウ)
いわれる日本の都があったんです!

時は奈良時代の740年12月15日
聖武天皇によって造られはじめたという恭仁京。
わずか4年しか続かなかったこの都は、長い間
どんな姿で実在していたのか分からない"幻の都"
でした・・・。今回は、実際に恭仁京のあった
土地にいってみて、一体、恭仁京ってどんな都
だったのかに迫ってみたいと思います!

 目次 "幻の都" 恭仁京(クニキョウ)とは? 
レポーターが行った場所! 
古代の都の移り変わり(年表) 
※クリックすると項目へとびます。

◆ "幻の都" 恭仁京(クニキョウ)とは? ◆
さて、まず恭仁京のあった奈良時代って
どんな時代だったのかといいますと、その名の
とおり、奈良に日本の都があった時代でっす。
日本は奈良時代に、中国(唐)から様々な
影響をうけて、まねしたりして天皇を中心と
したしっかりした国の形をつくったり、
法律や身分制度を整えていきました。

皆さんの中に、遠足や旅行などで奈良に
いったとき大仏や法隆寺や薬師寺を訪れた方も
多いと思いますが、それらが建てられた
仏教の影響の多い時代でもありました。
恭仁京復元図
(現在の京都府加茂町
加茂盆地)
◆どうして恭仁京ができたの?
恭仁京は740年12月15日から、聖武天皇に
よって
作られ始めました。それまでは、
平安京と並んで有名な、今の奈良県奈良市
にある、平城京に都がありました。都と
いうと、何だかのんびりした時間が流れ
ているような、優雅な感じがしますけど、
当時は疫病や戦乱などが頻発し、民衆の暮
らしもかなり荒れてしまっていた時期だっ
たようです。そんな中で、時の天皇、聖
武天皇は、平和な世の中がやってくるよ
うにとの願い
を込めて、新しい土地で新
しい都を始めようと思ったのではないか
といわれているそうです。

そして聖武天皇が各地を旅して回った結果
現在の京都府加茂町である、瓶原(ミカノ
ハラ)の地を中心に、新しい都を建てるぞ!
と宣言したのが740年12月15日のだったそう
です!。北に急な山地があり、南に平野が
あってその中央を泉川(木津川)がゆったりと
流れるという、景観の良さもあって、ここを
新しい都にしたのではないかといわれている
ようです。確かにゆうゆうと流れる木津川は
スケールが大きくて、水も綺麗な感じがしま
した。

◆恭仁京の様子はどんなだった?
さて、そんなわけでレポーターは、実際に
恭仁京跡にいってきました。都の跡とは、
いえ、最近まで"幻の都"だったので、当時
恭仁京ににあった全ての建物について解明
されているわけではないようです。昭和48
年度から発掘調査がされて、少しずつ当時
の姿が分かってきた感じなのです。

恭仁京が作られ始めると、多くの人々が平
城京から移り住み、活気にあふれていた

うです。道路は碁盤の目のように、きち
んと整備されて、瓶原の台地には中国風の
壮大な宮殿
が建てられたそうです。宮殿の
中でも一番大きな宮殿で、いろいろな儀式
が行われていたのが「大極殿」という建物
でした。大極殿の土台の石が発見されてい
て、石碑が建っていましたよ。当時は、こ
こに沢山の人がいて、ガヤガヤしていたん
でしょうね。

恭仁京は南北に750メートル、東西にに560
メートルの大きさでした。石碑などは無い
ようでしたが、天皇が住んでいて儀式など
も行われていた「内裏」の跡が発掘されて
いるようです。また、宮殿の周りを囲んで
いた5メートルほどの土の塀、「大垣」と、
都の、雰囲気には欠かせない、出入りのた
めの門の跡も発見されていました!

◆恭仁京でおこなわれたことは?
740年から、日本の首都として政治・経済
・文化の中心になった恭仁京。どんなこと
が行われていたんでしょうね?

当時、聖武天皇の頭の中には、新しい都を
造ることのほかに、大仏を造ろうという、
大きな計画がありました。そして、この
大仏を造ろう!という計画が恭仁京で練ら
れ、
近江の信楽というところで工事がはじ
められたそうです。結果的にこの大仏計画
によって、奈良の大仏がつくられたんです
よ〜!

また、詳しくは後で書きますが、聖武天皇
は恭仁京で、全国60あまりの国に国分寺・
国分尼寺を建てること
を命じました。当時
は天然痘の流行や飢餓や内乱などの社会
不安が続いたため、平安を願い、仏教の教え
によって国をおさめ、安泰にしようと思っ
たわけです。

恭仁京のその後・・・
平城京から、新しく生まれ変わった恭仁京
でしたが、都として栄えたのはわずか4年
ほどで、都は大阪の難波、そして再び平城
京へともどっていったのでした。

恭仁京の後は、仏教によって世の中の乱れ
を鎮め、国を安泰にしようということで、
そのまま「山城国分寺」というお寺になり
ました。
今では、その山城国分寺もなく
なってしまいましたが、お寺にあった七重
の塔
の土台になった石や、石碑を見ること
ができました!

恭仁京大極殿跡
(京都府加茂町)
大極殿跡の石碑
当時は、この辺りは
にぎやかだったの
だろうなぁ・・・。
大極殿の土台の石
ここに高さ25メートル
の大きな宮殿があった
んです!
山城国分寺跡の石碑
恭仁京を受け継いだ
お寺なので、同じ敷
地にありました。
国分寺の七重の塔を
支えた土台の石

塔は国分寺建設時に、
新しく建てられました。



◆ 今回、レポーターが行った場所! ◆

○ 京都府 相楽郡 加茂町 恭仁京・山城国分寺跡
今回、レポーターが行ったのは京都のずーっと南
奈良県との県境に近い相良郡加茂町。田園風景が
ひろがっていて、木津川という大きな川がゆうゆ
うと流れていて、のんびりした感じでした。レポ
ーターが行ったときは、観光客らしき人にも会い
ませんでした。このあたりは、古くは、「みかの
はら(瓶原)」と呼ばれ、木津川と山々に囲まれた
風流な土地として有名だったんですよ!

今造る久迩の都は山河のさやけき見ればうべ知らすらし
という大伴宿禰家持っていう人の歌が、和歌集として
有名な『万葉集』の中にあります。意味は、新たに造る
ことになった恭仁の都は、山や川が清らかで美しい!
ここが都になるのも、もっともなことだなー(意訳)
って感じらしいです。昔の人も今の人も、こうい
う風景をみて感じることは一緒だったんですね。

○ 京都府 相楽郡 山城町 京都府立山城郷土資料館
恭仁京の資料を探しに、山城郷土資料館へ行って
きました!ここでは、南山城地域の歴史と文化が
が紹介されています。恭仁京跡で発掘された、瓦
も見ることができました。このあたりは鎌倉時代
などにさかんに石仏が造られたそうなので、石仏
の紹介や、山城国一揆(農民一揆)のことなど、興
味があったら、是非行ってみてくださいね!


◆ 古代の都の移り変わり(年表) ◆

最後に、恭仁宮のあった奈良時代の都の移り変わりに
注目してみましょう!

年号 西暦 歴史
和銅  3 710 3月 都が藤原京から、平城京になる。
5月 恭仁京周辺でも造られていた、
   銅貨、「和銅開珎」が発行される。
天平 12 740 12月 都が平城京から、恭仁京になる。
天平 13 741 聖武天皇が、全国に国分寺・国分尼寺を造るよう命じる。
天平 14 742 8月 近江の紫香楽という土地に離宮を造る。
天平 15 743 10月 聖武天皇が大仏を造るよう命じる。
天平 16 744 2月 都が恭仁京から、難波京になる。
天平 17 745 5月 都が難波京から、平城京になる。
8月 奈良で大仏の建立が始まる。
天平 18 746 恭仁京の大極殿が、山城国分寺にとりこまれる。
勝宝 4 752 東大寺の大仏、開眼会をむかえる。大仏ができました!
延暦  3 784 11月 都が平城京から、長岡京になる。
延暦 13 794 10月 都が長岡京から、平安京になる。平安時代の始まりですね。

"幻の都"といわれてきた恭仁京は、わずか4年
ほどの、短い期間の都でしたが、大仏計画など
仏教を中心とした奈良時代の歴史の中で、重要
な役割を果たした都だったんですネ!



●取材・制作・編集・写真  岡本 卓也

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