
お城のあった安土山
比叡山・びわ湖などが一
望できます。城のあった
頃、周辺は沼地でした。
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◆城内のまっすぐで大きな道のナゾ!
左の写真の山、安土山にある安土城跡。遠くか
らみると、ただの緑の山でしたが近づくと山の
ふもとから頂上へ向けて、大手道(写真)という
太い石の階段がまっすぐにのびています!ここ
はお城の正面玄関になる道で、長い直線の道が
山の中腹まで180メートルものびているんです!
ここで「お城」「まっすぐで太くて長い道」っ
て聞いてアレッ変だなと思ったアナタは相当、
スルドイ!彦根城や二条城など、安土桃山時代
よりも新しいお城を見慣れてしまっていたレポ
ーターはすぐには気づけませんでしたが、お城
って自分の財産などを敵が奪いに来たときにそ
れを守るために戦う場所ですよね?それなのに
山のふもとから真ん中近くまでこんなに太くて
まっすぐな道を引いちゃって大丈夫なんでしょ
うか?もし、皆さんが同じように敵が攻めてく
ることを考えてお城を作るとしたらどうします
か?もっと細くて迷路みたいにしたり、堀を使
って通りにくい道を作るハズ・・・。
実は、安土城はそれまでの中世のお城の目的だ
った「敵から身を守る」という常識を破って、
新しい目的を盛り込んで造られた最初のお城だ
ったのです!
◆お城=守りだけではないのが安土城!
さて、安土城に堂々と造られた大手道。左の図
のように道の脇には、豊臣秀吉(羽柴秀吉)、前
田利家など家臣の屋敷が並んでいたそうです。
織田信長は一体何を考えていたのでしょうか?
実は、信長は大手道やお城全体を造るにあたっ
て自分の権力の大きさを世に知らしめること、
さらに家臣をお城の中に住まわせることで軍事
のプロ集団という武士と、農民などその他の身
分の人々の区別をはっきりと示そうと考えてい
たのです。大きな道は、城主の支配力の大きさ
と、きっちりした身分の区別を表していたんで
すね!
さらに続報!広い道を作ってしまったから、防
御のことは二の次に考えていたのかな。と思わ
れていた安土城ですが、最近の発掘によって、
大手道につながる小さな門がいくつかあったこ
と、大手道自体も小さな門で仕切られていたこ
とがわかって意外と複雑な守りの構造になって
いたようです!
◆ナゼ安土城の石段には仏様が使われてる?
左の写真の中に石仏の写真がありますが、大手
道を登っていくと、ビックリすることに石段に
仏様がいるんです!みんなが歩いて踏む段のと
ころにですヨ!うわ〜踏みつけたらたらバチが
当たっちゃいそう・・・。でもどうして???
これは、お城を造るにあたって石が足りないの
で、周辺のお寺の石仏や墓石まで使って造った
からなんですけどここにもしっかりした意味が
あるんです!それは、「石で造った仏は単に石
でしかない」という城主信長の、神仏を一切崇
めない考えが表れているんです。
◆天主跡へ・・・
大手道を登ると山の中腹から天主に向かって道
がさらに続いています。この辺りからは大手道
とは様子が変わり、防御の拠点である門の跡(
写真の黒金門跡など)が沢山あります。道幅も
狭く直角にくねくね曲がって攻めにくく造って
あるなぁと感じます。段差も一段と険しくなっ
てきます。黒金門跡から二の丸、本丸跡へと道
は進みます。そして、安土山の山頂、天主跡地
に到着!1582年に消失してから発掘調査が始ま
る1989年まで、人が訪れることもなくて、瓦礫
と草に埋もれていたんだそうです。
実際に発掘してみると、炎上したときの熱で溶
けてゆがんだ瓦や、熱でひびが入った石垣の石
がゴロゴロ出てきました。それだけ焼け方がひ
どくて原型をとどめていなかった天主の部分は
現在でもナゾが多くて、柱の下に敷く礎石(写
真)や、わずかに残った当時の手紙や、当時安
土城に出入りしていたキリスト教の宣教師が持
ち帰った文書などから、その姿を推測している
段階のようです。
◆天主の様子はどんなだった?
現在わかっている天主の様子は、
・天主の主要な壁は黒い鉄の壁だったこと
・地上6階、地下1階七層構造の塔だったこと
・黒い漆塗りの窓が白い壁についていたこと
・七層ごとにカラフルに色分けされていて最上
階は全て金色!他は赤、青などの色が使われ
ていたこと
・天主の瓦は青っぽい色をしていたこと
なのだそうです。
◆安土城はどうしてできたの?
織田信長の天下統一のための拠点となった安土
城でもどうして、信長は安土山にお城を造ろう
としたんでしょうね?
まず、近江の街道が安土で交差していて、今で
いう「交通アクセスがいい」場所だったこと!
これは大事。移動するのが便利というだけでは
なくて、各地から食料や武器などの「物資」が
調達しやすい場所であったこと。物資が沢山集
められる土地なら兵力の強化も、街の発展も望
ますからね!
次に、当時信長は武田,浅井・朝倉氏という強
力なライバルたちに打ち勝っていて、次は西日
本を制圧しようと考えていた軍事的な戦略があ
ったからです。ただしあまりにも西へ行ってし
まうと東北に上杉謙信という強敵が残っていた
ので、攻められたときに反応が遅れてしまいま
す。そこで!そのとき本拠地だった岐阜よりも
もう少しだけ西にある安土に、拠点を移そうと
考えたというわけです。
最後に、天下統一するためには自分の権力を世
の人に「正統な」ものだと認めさせ、権威を高
めることも大事でした。そのためには、京都に
住む皇族をうまく利用し、コントロールする必
要がありました。しかし信長は、あくまで自分
の権威を高めるために皇族を視野にいれたいと
思っていたため、京都に移り住んで自分が「皇
族の下」にいるというへんな印象を世の人に与
えたくはありませんでした。そこでっ。まぁま
ぁ京都に近い(馬で1日ほどだそうです)位置に
拠点を置き、皇族の様子がすぐに分かる安土の
地に城をつくったというわけです!
◆安土城の影響と功績!
最後に安土城が後のお城に与えた影響をまとめ
てみます!
・「お城は守るための拠点」という常識を破っ
て「支配者の権威を知らしめるもの」「武士
と農民などの身分をはっきり意識させる道具」
という新たな機能を盛り込んだということ!
・古くから石積みの技術に優れた滋賀県の「穴
太(あのう)」の石工を使って、それまでにな
く優れた石垣を築いたこと。これによって高
層建築が容易にできるようになったのです!
安土城は織田信長の、従来の価値観に捕らわれ
ない発想をもとに造られたお城。まだまだ発掘
中でナゾが多いけれど、豪華な外見だけでなく
後のお城のお手本となるような新しい機能を盛
り込んだ近代的なお城だったんだなぁ・・・。
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天主へ続く大手道
石造りの道(ほとんど階
段)が安土山の中腹まで
続いています!
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道沿いには家臣の屋敷!
(豊臣秀吉の屋敷跡)
大手道を挟んで向かいに
前田利家の邸宅も発見!
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道に石仏が・・・
石の階段のいたるところ
に、石仏が使用されてい
ました!
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天主近くの黒金門跡
黒い金(かね)の門の名の
通り鉄製の強固な門だっ
たようです。
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天主跡
地下1階の部分。この
上にカラフルな天主が!
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柱の下に敷かれた石
七層の天主を支えた礎
石です。91個発掘済み
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天主最上階の模型
(黄金に輝く天主の模型。
信長の館という博物館
にあります。)
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そう見寺の三重塔
信長が築城したときに
建立されたお寺の塔
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そう見寺の仁王門
安土城が廃城になった
後も安土山を見守って
きました!
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